2024/12/29

試験批判をする者は一生合格できなくても文句は言えない

 私の司法書士試験受験は超長期でしたが、合格の2年前、令和元年の試験の後、考えを完全に改めました。私は、試験科目に憲法がなかった頃からの受験生です。そして、平成15年までは、記述の論点量・記載量は、現在の半分以下でした。平成16年から徐々に増え始め、現在ではボリュームが完全に倍増。昔の試験を知っている身としては、近年の試験を本当に理不尽に思っていました。試験科目が増えた上に、試験時間が同じなのに、記述式のボリュームが倍増したのですから、どう客観的に見ても、理不尽だと思います。

 特に平成12年から14年までは試験科目に司法書士法もなかったため、試験科目は現在よりも2科目も少なく、また、現在の不登法記述は6件から8件にもかかわらず、平成13年の不登法記述はたったの1件、平成14年は2件でした。勿論、商登法の記述も、現在の2問ではなく、当時は1問です。ここまでくると、記述式のボリュームは現在の半分どころか、3分の1以下です。試験科目が2科目も少なくて記述式のボリュームが現在の3分の1以下ですから、「同じ司法書士試験という名の付いた全く別個の資格試験」といって差し支えないと思います。

 しかし、ゲームから降りない以上、試験の理不尽さを嘆いても仕方ありません。受験生がどんなに不満の声を上げようと、試験そのものを変えることはできないのです。試験がどんなに理不尽であっても、受験生に残された選択肢は、撤退するか、とことんやるかの二択しかありません。やるなら、考え方はシンプルで、合格最低点を取ることだけを目指し、それ以外の余計なことを考えないことです。試験批判をしているということは、自身の敗因の分析が甘く、かつ、敗因を正確に分析した上での対策に基づいた勉強をしていないということです。一生懸命、敗因を分析したつもりでも、試験批判をしているということは、その分析は、どこかずれているのです。ですから、試験批判をしているうちは、どんなに努力しようが、その努力は理にかなったものではなく、合格からずれたものにすぎないのです。そもそも余計なことを考えているのですから、本人が思っているほどは勉強していないし、集中力にも欠けているのです。受かるべくして受かる者は、試験批判などせずに、黙々と勉強しています。

 また、試験批判が厄介なのは、ネットに試験批判を書き込むと、共感の声が多く集まることです。そうすると、なかなか試験批判の連鎖から逃れることができません。酷な言い方をすれば、駄目な受験生同士で駄目な言い訳をして、自身の不合格を試験のせいにして正当化し合うという、負のループが延々と続くのです(その意味で、難関資格に関しては、匿名掲示板を閲覧しないことをお勧めします。)。

 試験批判をしているうちは、何度も何度も試験に落ち続ける可能性は極めて高いです。それこそ、永久に合格できなくても、文句は言えません。

 私は、不合格を人のせいにしたことはありませんでしたが、試験のせいにしていた部分はありました。そこで、合格の2年前に、今までの不合格は、全て自分が悪かったと思うことにしました。私は試験が平等だとは思っていません。正直、今でも理不尽だと思っています。しかし、合格までは試験に対する不満は封印し、全て自分が悪かったと思うことにしたら、試験に対するドロドロした感情は、少なくとも半減されました。

 私が今、司法書士試験に関して、平成15年以前よりも現在の方が、圧倒的に負荷が強いという不平等について書くことができるのは、合格したからです。試験批判は、合格してからにしましょう。